等伯に狩野永徳

桃山時代の絵師たちは「注文主」が絶対であり、
その意向に副った作品を描かねばなりませんでした。  
ましてや相手が天下人・豊臣秀吉クラスともなれば、
下手をすれば首が飛びます。
 かの狩野永徳でさえ、織田信長安土城の障壁画を描く時、
いつ信長の不興をかっても狩野家に累が及ばないように、
家督を弟に譲って制作に赴いたのだそうです。


 そのため、絵師たちは、あらゆる要求に応えられるように
幅広い技術を身に付けることが必須であり、且つ常に大きな緊張感をもって制作していたであろうことが窺われます。
  

 当時はまだまだ「戦国の息吹」が残る時代、刀に自らの命を懸けていた武士たちと同じく、絵師たちも、刀の代わりに筆に命を懸けていたのかもしれない・・・
  だからこそ、あのような素晴らしい作品群が描けたのだろうか、と感慨深いものがあります。
と、七尾美術館の学芸員の方に教えていただきました。